人間は情報をストーリーの形で解釈します。情報量が多くても、ストーリーとして整合性がとれていれば記憶に残りやすいのです。逆に、情報量が少なくても、個々の情報同士の関連性や連続性が乏しければ覚えにくいものです。例えば、ほとんどの日本人は桃太郎や浦島太郎のあらすじをスラスラと語れるでしょう。しかし「4421875819832814」という数字の並びは、桃太郎よりずっと情報量が少ないにも拘わらず、ほとんどの人の記憶に残ることはないでしょう。
多くの人が好むストーリーのフォーマットというものがあります。「主人公が目標に向かって進もうとするが、逆境に直面してくじけそうになる。主人公は何らかの方法で成長し、逆境を跳ねのけて目標を達成する」というのは典型的なフォーマットです。主人公の目標によって、アクションものになったり、恋愛ものになったりします。
人は自分の理解の範疇を超えた出来事に直面すると、理解できるように解釈します。ある人が難病にかかったと告知されたとします。その人にとっては理解の範疇を超えた出来事でしょう。「なぜ自分なのか?自分がこんな目に遭うはずがない」と混乱します。そこで、正気を保つために「自分なら乗り越えられると思って、神はこんな試練を与えたのだ」などど解釈するのです。
1950年代に、アメリカミシガン州の病院で3人の男が出会い、会話をしました。この3人にはある共通点がありました。3人が3人とも、「自分がイエス・キリストだ」と信じていたのです。3人はそれぞれ自己紹介で「私は神です」とか「私はキリストの生まれ変わりです」などと語りました。
3人の会談は複数回設けられました。この会合の主催者である心理学者のロキーチは3人に対して、「皆さん自分がキリストだと言っていますが、キリストが3人もいるのはおかしくないですか?この点についてどう思いますか?」と質問をぶつけてみました。3人とも「私が真のキリストであり、他の2人の主張は間違っている」と回答しました。
人は他人の話のおかしいところや矛盾点にはすぐ気づきますが、自分自身の話のおかしさにはなかなか気づかないようです。自分がキリストだと主張する3人も、他の2人が言っていることはおかしいと批判しました。しかし、自分自身の主張が荒唐無稽であることには気づきません。事実や世の中の道理を捻じ曲げて、自分の信念に沿うように再解釈してしまうのです。