今もあるかはわかりませんが、以前国道沿いに「全品半額」というキャッチコピーの役肉屋の看板がありました。「カルビ1人前1,200円」の「1,200円」の部分が赤い二重線で消されて、その隣に「600円」と書かれていました。その店はチェーン店ではなく、個人店です。個人店が「全品半額」といったら、それはもはや半額の値段が定価というべきでしょう。
庶民的な感覚の持ち主なら、プレミア的な価値があるTシャツが3万円と聞けば高いと感じるでしょう。しかし、普段は3万円で売っているけど今日だけ特別価格1万円と言われたらどうでしょうか。心が揺らぐ人もでてくるのではないでしょうか。このとき、売る側は「アンカー効果」を利用しています。
アンカーとは、船舶などを水上の一定範囲に留めるための道具(いかり)です。最初に聞いた情報はアンカーとしてその人の心にアンカーをおろします。そしてその後は、アンカー情報が判断基準となるのです。
最初の焼肉屋の例でいえば、カルビ1人前1,200円という情報がアンカーとなります。1,200円を基準に考えると、半額の600円という数字は安く感じます。事前情報がない状態でTシャツが1万円と聞くと、多くの人は買わないでしょう。最初に3万円という情報を聞くことで、3万円が基準価格となって、それよりも2万円も安い1万円という値段が安く感じられるようになります。
1974年に、行動経済学者のダニエル・カーネマンらは、アンカー効果を確かめる実験をおこないました。被験者は「国連に加盟しているアフリカの国はどれくらいあるか」という質問に答えます。ただし、質問の前に被験者はルーレットを回します。ルーレットには0から100までの数字が書いてありますが、実は10か65のどちらかしか止まらないようになっていました。
ルーレットが10か65で止まった後、被験者はアフリカの国連加盟国の割合が、ルーレットの数字より高いか低いか質問されます。その後、具体的に何%か尋ねられます。ルーレットで10が出た被験者は、アフリカの国連加盟国が25%程度だと答え、65が出た人は45%程度だと答えています。
一般人にとって、アフリカの国連加盟国の割合というのは見当がつかない数字です。したがって、ほぼ勘で答えることになります。そこで被験者の前に、10または65という数字が突然飛び込んできます。これが被験者にとってのアンカーになるのです。
重要なのは、ルーレットが止まった数字というのは質問の中身に何の関連もないということです。実際には細工がされているものの、ルーレットが止まった数字は、被験者にとって答えのヒントにはなり得ません。被験者もそのことは頭ではわかっているはずです。それでも、最初に与えられた情報はアンカーとなって被験者の判断基準に影響を与えています。
不動産会社もアンカー効果を利用して契約を促進しています。物件の内覧をするとき、不動産の営業担当者は、本命の物件を最初に見せたりはしません。内覧者の希望を聞いて、明らかにその希望を満たさないであろう部屋から見せていきます。いくつかの見せ球物件を回った後、本命の物件を見せます。すると内覧者は「わかりました。ここにします」と決断するのです。
そもそも、内覧者の希望を完全に満たす部屋は存在しません。立地・間取り・周辺環境・家賃などの条件のうち、いずれかは希望から外れてしまうものです。そんななか、営業担当者は手持ちの物件の中で、希望条件に最も近いものをピックアップします。しかしいきなりそれを見せてはいけません。手持ちの中でベストといっても、希望条件を完全に満たしてはいないのですから、内覧しても「決め手に欠けるなあ・・・もう少し検討します」という結果が見えています。
最初に条件を全然満たさない物件を見せることで、その物件がアンカーになります。その後本命の物件を見ると、最初から本命の物件を見た場合と比べて格段に印象がよくなります。そして「家賃は予算よりちょっと高いけど、今日見た中では一番良かったしここに決めるか」と考えるのです。アンカー効果はわかっていても逃れることは困難なのです。