2007年のある日、アメリカワシントンD.C.にある地下鉄の駅、ランファン・プラザ駅で、ストリートミュージシャンがバイオリンでクラッシックの名曲を演奏していました。時間は朝のラッシュアワー。演奏者は空のバイオリンケースを開けて、お金が投げ入れられるようにしていました。
バイオリンケースにお金を入れた人は、1097人中27人でした。立ち止まって1分以上演奏を聴いていたのはたったの7人でした。演奏者は1時間程度バイオリンを弾いて、32ドルほどを稼ぎました。
一般的なストリートミュージシャンとしては悪くない稼ぎでしょう。しかしこの日の演奏者にとっては、あまりにふさわしくない金額でした。演奏者の名前はジョシュア・ベル。彼は世界的なバイオリニストでした。
新聞記者のジーン・ワインガーデンは、世界屈指のバイオリニストがストリートミュージシャンのふりをして演奏したら、人々は彼の卓越した演奏に気づくのか、立ち止まって耳を傾けるのかを実験してみようと考えました。ベルはこの依頼を快諾し、野球帽を被ってランファン・プラザ駅で演奏を披露したのです。
ごく一部の人は、彼が平凡なストリートミュージシャンではないことに気がつきました。少し前にベルの演奏を聴いていた人は、彼がベルだと気づきました。また、駅の職員で長年平凡なストリートミュージシャンの演奏を聴き続けた人も、彼が優れた奏者であることに気づきました。
しかしほとんどの人は、演奏していることを気にも留めなかったか、気づいたけどよくいるストリートミュージシャンよりはマシだと思ったに過ぎませんでした。超一流の音楽家が、駅で野球帽を被って演奏しているなどとは思わなかったのです。
この経験について、ベルはどう受け止めたのでしょうか。のちにインタビューでベルはこのように語っています。「多くの人が私を無視したことはそれほど驚きではなかった。音楽を聴くときには期待が大きな役割を果たす。クラッシックの鑑賞には、それにふさわしい環境が必要とされる」。音響設備が整ったコンサートホールで、高級感のある椅子に座って鑑賞することで、演奏がよりよく聴こえてくるというわけです。
逆に、整っている環境で期待に胸を膨らませながら演奏を聴くと、実際にはたいして質が高くないものでも、素晴らしいものとして感じられるでしょう。演劇やお笑いにも同じようなことが言えます。文字にして読んでみれば、たいして面白くもない台詞であっても、名のある俳優やコメディアンが言えば面白く感じられます。
もちろん、それは演者の技術によるところが大きいでしょう。しかしそれだけではなく「この人なら素晴らしいパフォーマンスを見せてくれるだろう」という期待感が果たしている役割も大きいのです。