恐怖というのは人間の本能に根差した反応です。人は生命や安全が脅かされると感じたとき恐怖します。恐怖の感情を呼び起こす元凶から速やかに離れようとします。
大きな野良犬が唸り声を上げながらこっちを睨みつけていたら、多くの人が恐怖を感じ、その犬から離れようとするでしょう。
誰もいないと思っていたら物陰からガサガサと大きな音がしたら驚くでしょう。原始時代であれば、それは危険な捕食者や毒をもつ生物の可能性があります。現代ではいきなりそんな危険な存在と遭遇する確率は低いですが、そういった状況で私たちは本能的に恐怖します。
太陽が出て明るい時間よりも、夜の方が恐怖を感じやすくなります。夜の方が自分に脅威が迫っていることに気付きにくいということが原因のひとつではないでしょうか。
一般的に恐怖は避けて通りたいものです。しかし一方で、恐怖が娯楽になる場合があります。ジェットコースター、バンジージャンプ、お化け屋敷などは、お金を払ってわざわざ恐怖を体験するものです。また映画やドラマでホラー作品はいつの時代も一定の人気があります。なぜ恐怖が娯楽になるのでしょうか。
これに関して『恐怖の正体』(春日武彦著)で興味深い考察がなされています。著者はそもそも「娯楽として提供される恐怖は、もはや恐怖そのものではない」と主張します。さらに「恐怖の抜け殻、恐怖の「まがいもの」、恐怖におけるカニカマみたいなものである」と説明しています。
確かに私たちが恐怖を娯楽として味わうとき、脅威が現実のものになるとは考えていません。バンジージャンプにチャレンジするとき「紐が切れたらどうしよう」と思うかもしれませんが、安全性については一定の信頼を置いています。そうでなければチャレンジしません。10人に1人の割合で紐が切れるという条件であれば、誰もやらないでしょう(実際のバンジージャンプの事故率は50万分の1程度と言われています)。
筆者は「わたしたちは極限だとか臨界、行きつく果てやタブーの向こう、究極や無限といったものが気に掛かる。恐れるとともに、気に掛かる。結局どうなっているのか、もっともっとエスカレートさせるとどうなるのか、とにかくそれを知りたい。命がけの探検や冒険、危険な経験やトライアル、そしてきわめて多くの愚行が、最終的にはそこに動機を立脚させている」と述べています。
目の前に凶暴な犬がいて、鎖でつながれています。通行人に向かってけたたましく吠えていて、鎖がなければ飛び掛かってきそうな勢いです。こんな状況で「どこまで近付るかやってみようぜ」といってギリギリまで近付く遊びをする人がいます。特に小中学生の男子あたりはそんな無謀な遊びをやりたがるものです。別にギリギリまで近付いたところで何も得るものはありません。近付き過ぎたら噛みつかれます。ハイリスクノーリターンの遊びです。
この遊びは、犬が鎖につながれているから成立します。野放しだったら逃げるしかありません。ある一定の距離までであれば、自分に被害が及ぶことはない。その保証があるからチャレンジするのです。そういう保証のもとで、距離の限界近くまで寄ってみようとするのです。
こういったチャレンジをして、不幸にも亡くなった人もたくさんいます。彼らはそうした結末を望んでいたわけではありません。超えてはいけないラインの向こう側を、安全な領域から覗こうしただけではないでしょうか。しかし超えていないつもりが超えてしまっていた、ということなのだと私は思っています。