初期のテレビの覇権争い

フィロ・ファーンズワースは1906年にアメリカユタ州に農家の息子として生まれ、1918年には家族とともにアイダホ州に移り住みます。引っ越し先の家に、当時の農村では珍しかった電気が引かれていることがきっかけで、ファーンズワースは電気工学に興味を持ちます。電気に関連する本や雑誌を読み漁り、手製の電動モーターを作るほどのめりこんでいました。

ファーンズワースが高校生のとき、電子式テレビのための撮像管(被写体の像を電気信号に変換するための電子部品)のアイデアを思いつき、化学教師のジャスティン・トルーマンに見せます。これに感心したトルーマンは、ファーンズワースのアイデアを書き留めました。1927年、ファーンズワースはブリカムヤング大在学中にテレビシステムの特許を出願し、1930年に発効となりました。

当時ラジオ関連の特許を数多く押さえていた大企業、RCAはテレビの可能性に目をつけました。RCAに雇われていた発明家のウラジミール・ツヴォルキンは、身分を偽ってファーンズワースの研究室を訪れました。研究室からRCAに戻ったツヴォルキンは、開発チームにファーンズワースの製品を複製するように指示しました。ツヴォルキンが開発したテレビカメラ用撮像管は特許出願されましたが、機能性に問題ありとされて出願を却下されました。

次にRCAはファーンズワースに特許を10万ドルで買い取るともちかけましたが、ファーンズワースはこれを拒否し、競合のフィルコ社と契約しました。するとRCAは「ファーンズワースの製品は自分たちが先に発明した」と主張し訴訟を起こしました。

二審まではファーンズワースの負けでした。しかし高校生当時、化学教師に見せた回路図が重要な証拠となって、最終的にファーンズワースは勝利を収めます。しかしこの訴訟で膨大な時間と費用が費やされてしまいました。

その後、ツヴォルキンは撮像管の改良を重ねて、製品化に成功します。ツヴォルキンの撮像管は、1936年のベルリンオリンピックで使われ、成功を収めました。初期のテレビ産業ではツヴォルキンの方式が標準になりました。ファーンズワースも独自のテレビシステムを確立すべく奮闘しましたが、商業的には成功しませんでした。

ファーンズワースは映像を電波で送受信できる仕組みを発明しました。特許に関する裁判でも勝利しました。しかしそれだけではテレビ放送事業を軌道に乗せることはできません。放送事業免許の取得、撮影のための機材購入、スタッフ・出演者の確保など、やるべきことはたくさんあります。しかも個人ではできないようなことばかりです。

ファーンズワースがテレビ事業でイニシアチブを取るにはどうすればよかったのでしょうか。おそらく、RCAからの申し出を受け入れた方がよかったでしょう。RCAには豊富な資金と人的資源がありました。RCAの力を利用すれば、ファーンズワースの撮像管がスタンダードになる可能性が高まったと思います。

とはいえ、それがファーンズワースにとって幸せなことだったのかは誰にもわかりません。「RCAなんかに特許を売ってたまるか」という信念に基づいて行動していたのだとすれば、それを「愚かなことをしたものだ」と批判などできないでしょう。

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