犯罪捜査において、指紋鑑定は科学的な手法として重視されてきました。2002年まで、アメリカの裁判で指紋鑑定に異議を唱えて認められた例はありません。それほど高い信頼を得ている手法なのです。
一方で、指紋鑑定のミスによる誤認逮捕も発生しています。2004年マドリードで列車爆破事件が発生し、死者192人、負傷者2000人以上を出す大惨事となりました。現場には犯人のものと思われる指紋が残されていました。捜査の結果、FBIはオレゴン州在住のあるアメリカ人の指紋であると断定しました。
彼は逮捕されましたが、指紋以外の疑わしい証拠が一切出てこず、結局不起訴となりました。そもそも彼は10年ほどアメリカから出たことすらなかったのです。アメリカ政府は彼に謝罪するとともに、200万ドルを払って示談が成立しました。その後の調査により、この誤鑑定はヒューマンエラーが原因であることがわかりました。
今や指紋認証は、スマホなど様々なデバイスの本人確認として利用されています。そのイメージから、犯罪捜査で用いられる指紋鑑定も、機械的に正確無比な照合ができると思う人も多いかもしれません。しかし、捜査で使われる指紋鑑定は、鑑定人の裁量が入り込む余地が非常に大きいのです。
本人確認の際に利用される指紋認証では、まず本人の指紋を読み取りデータとして登録します。登録後、認証を受ける人の指紋を読み取り、本人のものと一致するか照合します。この場合、どちらも鮮明で欠けたところのない指紋データを得られます。
一方、捜査で使われる指紋鑑定では、犯罪現場に残された潜在指紋と標本指紋(個人、例えば被疑者から採取された鮮明な指紋)を照合して一致するか判断します。潜在指紋は、多くの場合、不鮮明だったり歪みがあったり一部が欠けていたりします。そうした潜在指紋が標本指紋と一致するかの判断には、偏見やブレが生じやすくなります。
認知神経学者のドロールは、指紋鑑定の信頼性を調べるために様々な実験をおこないました。ドロールは指紋鑑定の専門家にとある潜在指紋を見せて、標本指紋と一致するか判断してもらいました。その後、一定の期間をおいてまた潜在指紋を見せて判断させます。ドロールはこれが実験であると分析官にばれないように、通常の鑑定業務の一環として実験をおこないました。
実は、1回目と2回目の潜在指紋は同じものでした。もし同じ分析官が、1回目と2回目で一致するかどうかの判断が異なっていたら、鑑定結果が分析官の判断に依存する部分が大きいことが証明されたといえるでしょう。
ドロールは2回目の指紋を見せる際、1回目の判断を覆すのを誘導するような情報を流していました。1回目で「一致」の判断をした分析官には「被疑者にはアリバイがあった」など、被疑者の無罪をほのめかすような情報を、「不一致」または「不明」の判断をした分析官には、「目撃者全員が被疑者を現場で見たといっている」といった、被疑者の有罪をほのめかすような情報を流したのです。
実験の結果、24件の鑑定のうち4件が、2回目で判断が変更されています。見ている指紋は同じなのに、指紋以外の情報によって一致・不一致の判断が変わってしまうということです。被疑者の人生を大きく左右し、司法の信頼性にも関わる重要な判断であることを考えると、「6分の1」という変更率は大きいといえるのではないでしょうか。
また、ドロールは変更を促すような情報がない状況でも実験をおこないました。2012年の実験では、72人の分析官が25組の指紋を2回分析しました。今回も、実験であるということは告げずに、1回目の鑑定の約半年後に同じ指紋を鑑定させました。その結果、10件に1件は2回目で判断が変更されました。
DNA鑑定による冤罪を晴らす活動をしているアメリカの非営利組織「イノセンス・プロジェクト」の調査によると、この組織によって無実が証明された350件のうち、45%が科学捜査の誤りが一因になっていることがわかりました。
自分の思い込みや周囲の環境などによって無意識のうちに合理的ではない判断をしてしまう心理現象のことを「認知バイアス」と呼びます。ここまで見てきた誤判定には、認知バイアスが大きく関わっています。私たちは他人のバイアスにはすぐに気づきますが、自分のバイアスには気づきにくいという性質があります。
科学捜査官400人を対象におこなわれたアンケートでは、71%が「認知バイアスは科学捜査にとって重大な懸念事項だ」ということに同意しました。しかし「自分の判断が認知バイアスに影響される可能性がある」ということに同意したのは26%でした。
つまり、アンケートに答えた捜査官は「周りの捜査官は認知バイアスによる誤判断のリスクがあるが、自分は大丈夫だ」と考えているということになります。まず、認知バイアスのリスクが自分自身にも大いにあると認めないと、リスクを改善することは難しいのではないでしょうか。