梅崎春生(1915年ー1965年)の随筆『人間回復』に以下のような文章があります。
近ごろは連夜の停電で仕事は出来ないし、電熱器でにたきはもちろん出来ないし、たまさかの配給の魚類は古くて生食できないし、炭は手に入らないし、困って九州の国もとへ無心状を出しても手紙の往復だけで二か月もかかる。急場の間に合いはしない。生活とみに困窮して憂うつの極みだが、さてそれについて腹がたつかといえば、別段腹も立ちはしない。電燈はつかないもの、配給魚は腐っているもの、と初めからあきらめているからなので、ときたま九州からの手紙が一週間でついたりすると、たいへん驚いてしまう。
これは昭和23年に書かれたもので、今から75年前です。当時の庶民はこのような生活でした。毎晩停電が発生していたようです。「配給の魚類は古くて生食できない」ということで、魚を自由に買うこともできず、たまに腐りかけのものが配給されるだけ。
生活に困って九州に便りを送っても往復で二か月かかるというのも、今では考えられません。現代では所得が低めの人でもだいたいスマホを持っています。アプリを使えば、九州どころか外国の知り合いにも即座にメッセージを送ることができます。
「別段腹も立ちはしない。電燈はつかないもの、配給魚は腐っているもの、と初めからあきらめている」という部分は興味深い。一定の期待をして、それが満たされないとき人は腹が立つわけで、最初から期待などしなければ腹が立つことはないんですね。
現代であれば、毎晩停電ということになると国民は大混乱に陥るでしょう。「事態を改善できない政府はなにをやっているんだ」と批判も高まるはずです。
スーパーで買った食品の鮮度が悪ければSNSや口コミで悪評が広まる時代です。店側が「買えるだけありがたいと思え!」なんて言おうものなら再起不能になるまで叩かれます。
電話やアプリの通信が滞って、「通話できない。メッセージが届かない」となればニュースは連日その話題で持ちきりでしょう。その原因を作った企業は相当程度の賠償も覚悟する必要があります。
75年前の利便性を100とすると、2023年の日本人は1000、いや10000、いやそれ以上の利便性を享受しているかもしれません。そうなると、1万なら1万という現在の利便性が基準となり、それを一定程度下回ると不満が出てきます。1万が9千になったとき、「でも75年前とは比較にならないほど便利だよね」とはならないのです。そして、1万でも満足することはなく「もっと便利に」と上を目指します。
「ここまでできればよし」とせずに、より良いものを目指した結果、人類の利便性は向上してきました。どこかで地球上の資源や人類の知能の限界がきて、発展がストップするかもしれませんが、それが数年後に来るのかはるか未来のことなのかはわかりません。