東京・国分寺市のクリニックの医師と薬局の薬剤師が、必要な量の100倍にあたるモルヒネを誤って処方し患者の男性を死亡させたとして書類送検されたというニュースがありました。医師が電子カルテの入力を誤り、薬剤師が処方箋に従って必要量の100倍の調剤を行ったということです。
このニュースを聞いて、「間違って100倍にすることなんてあるのか?」「医師が間違ったとしても、薬剤師が異常な数値に気付かないのか?」という疑問をもつ人も多いでしょう。しかし、医師だって単純なミスを犯すことはあります。薬剤師も異常値に気付かずにスルーしてしまうことはあるし、気付いても医師に遠慮して確認できないということだってあるのです。
2005年、イギリスに住む30代の女性が副鼻腔炎の手術を受けました。手術を担当するのは30年を超える経験を積んだベテラン医師で、麻酔科医も16年のキャリアがあります。何の心配もない手術のはずでした。
手術の初めに、患者は麻酔をかけられました。麻酔によって患者の呼吸機能も麻痺するため、人工的に呼吸を補助する必要があります。この手術では、咽頭マスクという器具を口から挿入して酸素を送り込む予定でした。ところが、ここでトラブルが起こりました。口に咽頭マスクが入らないのです。麻酔科医は試行錯誤しますがなかなか入りません。
患者は麻酔で呼吸機能が麻痺した状態のままで、呼吸補助もできていません。麻酔開始から2分で血中酸素飽和度は75%まで下がっています。通常は90%を下回ると「著しく低い」とされます。
麻酔開始から6分後、麻酔科医は様々な手法で事態を打開しようと試みますが、うまくいきません。患者の血中酸素飽和度はモニターに表示できる最低値の40%まで落ちていました。
この状況を乗り切る手段として、気管切開がありました。患者の喉を切開して、直接チューブを入れて気管へ通す方法です。リスクを伴う方法ですが、現状を考えると気管切開をおこなうしかありません。ベテラン看護師は、気管切開が必要になると読んで準備をしました。そして、手術室にいる医師たちに「気管切開の準備ができました」と声を掛けます。
しかし、医師たちは看護師を一瞥しただけで気管切開に取り掛かることはありませんでした。引き続き、どうにかして口にチューブを通そうと躍起になっています。麻酔から20分後、酸素飽和度は90%まで戻りましたが、もう手遅れでした。患者は酸素欠乏状態が長引いたために昏睡状態に陥っていました。そして、13日後に亡くなりました。
気管切開の準備をした看護師は、一度声をかけて無視された後、もう一度声をかけるべきかどうか苦悩していました。その時点でベストの選択肢は気管切開です。しかし、自分が気付いていない理由で気管切開ができないのかもしれません。そう思って再び声をかけられなかったのでしょう。
「命がかかってるんだから、上下関係とか間違っていたらとか考えずに声をかければいいのに」というのは、当事者でないから言えることです。その場にいたら、「普通に考えたらおかしいんだけど、自分にはわからない深い事情があってこの数字になったのかもしれない。そうだとしたら、私が確認することで向こうに余計な時間を取らせることになる」というように無理やり自分を納得させて指示に従うこともあるでしょう。
一方で、上下関係があっても勇気をもって進言できる人もいます。アメリカ、ジョンズ・ホプキンス病院の麻酔科医プロノボストがヘルニアの手術に参加したときの話です。手術開始から90分経過したとき、患者の呼吸が苦しそうになりました。血圧も急降下しています。プロノボストは、執刀医の手術用手袋の成分が原因でアレルギーを起こしているのではないかと疑いました。
プロノボストは、このような事態で推奨される薬剤エピネフリンを投与し、患者は落ち着きました。その後、執刀医に別の手袋に取り換えることを進言しました。しかし執刀医は「手術開始から90分経過するまでは何の問題もなかった。手袋が原因のはずはない」と拒絶して、手袋を替えずに手術を続けました。手術再開後、また患者の症状がぶり返し、プロノボストは再度エピネフリンを投与しました。
この時点でプロノボストは、手袋が原因でアレルギー反応が起きていることを確信しました。そこでプロノボストは、執刀医のメンツを傷つけずに手袋を交換する方法を考えて提案してみました。「もし私が間違っていたら、先生が手袋を取り換える数分の時間が無駄になります。もし先生が間違っていたら、患者は亡くなります。そう考えたら、手袋を交換した方がいいと思いませんか」
なかなかいい提案のように思えます。しかしそれでも執刀医は受け入れませんでした。「これはアレルギーが原因じゃないから私が手袋を取り換える必要もない」この時点で、執刀医にとって手袋を取り換えるのは、自分の医師としての威信が崩れることに等しくなっていたのです。
ここまで言われたら、勇気ある人間でも引き下がらざるを得ないでしょう。しかしプロノボストは自分の意志を貫きました。彼は看護師に、院長と理事長に電話するように指示したのです。「早く2人を呼んで!」そう言われた看護師が電話をかけようとした瞬間に、執刀医はついに折れました。別の手袋に取り換えて手術を続行して、手術は無事終わりました。手術後の検査によって、患者は最初の手袋の成分でアレルギーを起こしていたことがわかりました。
プロノボストのように、勇気をもって正しいと思ったことを主張するためにはどうすればよいのでしょうか。ひとつは、自分が関わっている領域についてしっかり学んで自信をもつことでしょう。自信があれば、立場の違いがあっても思ったことを言いやすくなります。
もうひとつは、日頃から「おかしいんじゃないか」と思ったことを実際に確認してみることです。「まあここで波風を立ててもな」と思って遠慮して黙っていたことも、思い切って確認してみましょう。丁重に、淡々と確認すればよいのです。そうすれば、クレーマーとか厄介者扱いされることはありません。普段から遠慮して声をあげられない人が、仕事での重要な場面や命がかかっている場面で声をあげられるはずがないのです。
また、個人が思ったことを気軽に確認できる組織作りも非常に重要です。地位が高くない人が「これっておかしくないですか」と声をあげても避難されないような組織が理想です。医療界全体がそのような風土になれば、医療事故も減るのではないでしょうか。