人の記憶はあてにならない

人はしばしば自分の記憶を誤って再構成します。ある記憶を思い出すとき、そのときの環境や他人の言動などの影響で、無意識のうちにストーリーを書き換えているのです。家族や友人と昔話をしていて、双方の記憶に食い違いが出てくることがよくあります。これは、自分や相手の記憶が書き換えられているために起こります。

1970年代にワシントン大学のエリザベス・ロフタスは、自動車事故の映像を見せるという実験をおこないました。映像を見た後、被験者は事故のときに車がどれくらいのスピードを出していたかを推測します。その際、被験者はいくつかのグループに分けられ、異なる質問をされました。

・激突したとき、車のスピードはどれくらいでしたか。
・衝突したとき、車のスピードはどれくらいでしたか。
・ぶつかったとき、車のスピードはどれくらいでしたか。
・当たったとき、車のスピードはどれくらいでしたか。
・接触したとき、車のスピードはどれくらいでしたか。

グループごとに被験者が答えた車のスピードの平均値は以下の通りでした。

・激突・・・・・・65.6km/h
・衝突・・・・・・63.2km/h
・ぶつかった・・・61.3km/h
・当たった・・・・54.7km/h
・接触した・・・・51.2km/h

全員が同じ映像を見たはずなのに、表現の違いで被験者の記憶が変化してしまったようです。「激突」と聞いた被験者は、その表現にふさわしくなるように、記憶の中の車のスピードを上げたのです。

ロフタスは、記憶がいかにあてにならないかを証明することをライフワークにしていました。ロフタスがおこなった別の実験では、被験者に犯罪がおこなわれているシーンを目撃させます。その後、被験者の前に複数の容疑者を並ばせて、警察官が「この中に犯人がいる」と言います。被験者の78%が複数の容疑者からひとりを指して「この人が犯人です」と証言します。しかし、実は容疑者の中に真犯人はいません。被験者が見た真犯人の顔は、警察官のことばによって、容疑者の中のひとりの顔に書き換えられてしまったというわけです。

なぜこのようなことが起こるのでしょうか。人間の記憶は、ビデオのような正確なものではなく、その場で作られ組み立てられるという仮説があります。中学時代の修学旅行のことを思い出すとき、「奈良」「鹿」「友達のケンジ」といったキーワードを寄せ集めて、足りない部分を補いながらストーリーを再構成するわけです。同じ出来事であっても、人によってキーワードは異なりますし、再構成の手法も様々です。その結果、「ケンジが鹿に追いかけられて泣いてたよな」「いや、追いかけられたのはヒロシだし、別に泣いてなかったよ」といった食い違いが生じるのです。

この話の教訓として、人から証言を聞き出すときに誘導するような質問をしないということがいえるでしょう。例えば、事故の目撃者に聞き取りをする際「運転手はスーツを着ている30代くらいの男性ではなかったですか」と聞いたら、本当はセーターを着ている50代の男性だったとしても、記憶の書き換えによって「そうです。30代くらいの男性で、スーツを着ていました」と答えてしまう恐れがあります。この場合は、「運転手は男性でしたか、女性でしたか。年齢はどれくらいで、どんな服装でしたか」といったように、相手に特定のイメージを植え付けないような質問をするのがよいでしょう。

子どもの記憶はだいたい3~4歳くらいから残っているといわれています。しかし、私には1歳過ぎくらいの記憶があります。保育園で保育士に抱かれて大泣きしている自分。その視線の先には、私を預けて仕事に向かう母の姿があります。とにかく母と離れたくなくて悲しかった記憶が蘇ります。

私が小学生くらいのころ、母はよくこのときの話をしていました。「1歳であんたを保育園に預けたんだけど、最初のころは火が付いたように泣きわめいて本当に大変だった」と。母の話は私の記憶と合致しています。しかし、これは実際に覚えているものではなく、母の話を繰り返し聞くことによって植え付けられた偽の記憶である可能性もあります。むしろその可能性の方が高いでしょう。とはいえ、私が本当に1歳の時のことを覚えているのか、確認しようがないですね。

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