このブログでは、何度か日本語の使い方に関する記事を書いてきました。「させていただく」というフレーズの用例や、それに対する見解も述べました。そんな中、『「させていただく」の使い方』(椎名美智著)という本を読みました。これまでにも多くの日本語の使い方に関する本で、「させていただく」が扱われてきましたが、まるごと1冊「させていただく」がテーマの本は珍しい。本屋で見かけてすぐに購入しました。
この本では、700人の被験者に様々な「させていただく」を用いた例文を見せて、違和感を覚えるかどうか調査しています。また、コーパス(電子テキストをたくさん集めたデータセット)を使って「させていただく」の使い方が年月を経てどう変化したかを考察しています。筆者の主観だけでなく、客観的なデータを使って分析しているのがこの本の特徴の一つです。
筆者は、「させていただく」について「距離感」という概念と絡めて考察しています。この考察は、これまで私が気付かなかった視点で「そういうことか」と腑に落ちました。筆者によると、私たちは他人と適切な距離を取りたいという欲求を持っていて、それが守られないと居心地が悪いということです。また筆者は、距離感を考えるときに「普通体か敬語体か?」「主語は誰か?」という2つの重要な要素があると述べています。
敬語を使うと相手との距離感は大きくなります。目上の人、年上の人、まだ打ち解けていない人に対しては、通常敬語を使って距離を取ります。大人同士で初対面なのにタメ口で話されると、私たちは必要以上に距離を詰められたと感じ、居心地が悪くなります。逆に、ずっと付き合っている恋人が急に敬語で話してきたら、距離を広げられたと感じて不安になるでしょう。
また、主語が「あなた」だと、言葉の上で相手に触れてしまうので距離感は小さくなるといいます。そこで、相手との距離感を広げるために主語が「私」に置き換えられます。
(1) この通路をまっすぐ進んでください。
(2) この通路をまっすぐお進みになってください。
(3) この通路をまっすぐ進んでいただいて・・・
例えば、店員が客に道案内をする場合を考えてみましょう。(1)は、命令形なので主語は「あなた」です。丁寧語は使われていますが、現代の基準ではこれでもちょっと不躾だと感じる人も多いでしょう。(2)は「お進みになる」という尊敬語が使われています。主語は(1)と同じく「あなた」です。(3)は「いただく」という謙譲語が使われています。主語は「私」です。実際の現場では(2)より(3)の方が多く使われていると思います。「この通路をまっすぐ進んでいただいて・・・そしたら着きますので」といったふんわりした言い方が好まれている気がします。私は常々「なぜ尊敬語より謙譲語の方が好まれるのか」という疑問を抱いていましたが、「主語を『あなた』にして相手との距離感をより広げるため」と考えると合点がいきます。
補助動詞の「いただく」は本来、相手の行為によって恩恵を受ける場合や、相手から許可を得て何かを行う場合に用いられます。「この通路をまっすぐ進んでいただく」というフレーズには、どちらの場合にも当てはまりません。本来の意味を無視して使う違和感よりも、相手との距離感を広げる便利さの方が勝ったということなのでしょう。
次に、来店客に向けたアナウンスを例にとってみます。
(4) 本日はご来店くださいまして誠にありがとうございます。
(5) 本日はご来店いただきまして誠にありがとうございます。
(4)と(5)はいずれも文法的に問題ない表現です。(4)の主語は「あなた=お客様」であり、尊敬語「くださる」が使われています。(5)の主語は「私たち=店」であり、謙譲語「いただく」が使われています。体感だと(5)の方が多用されている気がします。やはり、「あなた」ではなく「私」を主語にすることで相手との距離をより広げるためなのでしょう。
では、本題の「させていただく」の使い方を考察してみます。以下は、飲食禁止の店内で飲食している客を注意する表現例です。
(6) 店内で飲食をしないでください。
(7) 店内で飲食はなさらないでください。
(8) 店内での飲食は禁止させていただいております。
本来は(6)の言い方で十分丁寧なはずです。しかし、現代では(6)だと丁寧さが足りないのではないか、注意された方が逆上してクレームになるのではないか、という懸念から、より丁重な言い方が好まれます。(7)は尊敬語なのですが、実際にはあまり使われていないでしょう。主語が「あなた」になる(7)よりは、主語が「私」になる(8)の方が使われています。「いただいております」という表現も奥ゆかしいですね。「うちの店は前から飲食禁止なんですよ・・・だからあなたも・・・わかりますよね・・・?」と言っているようなニュアンスが伝わってきます。
この本では、さらに文法的に踏み込んだ議論が展開されています。この記事ではそこまで深入りしませんが、興味のある方はぜひご一読ください。